29、季語が主役ということ
前回わたしは、季語は一句のなかで主役となるべきことばだと述べました。季語が作者の感動そのものであるか、あるいは、その要因であることを強調するために、主役ということばを使いました。それでは、季語を主役として作る俳句とはそもそも何なのでしょうか。
歳時記のことを少し考えてみましょう。歳時記は、元々年中行事の解説書といった趣のものですが、俳句の季題集も歳時記といわれています。季節ごとの季語の説明や例句を中心として編まれ、生活の詩として四季折々の人々の暮しを活写しています。
ところで、たった十七音で、俳句は何を伝えようとしているのでしょうか。答は人によってさまざまでしょうが、わたしは、俳句は、季節の移ろいに託した生きる喜びであり、悲しみであり、まさにいのちの実感なのではないかと考えています。
それは、ふと口をついて生まれた呟きであったり、共感を得るために発せられたぎりぎりのメッセージだったりします。そんな俳句に、仮に五音の季語を入れると、残りは十二音です。そうまでして、季語を一つ入れるということに、いったいどんな意味があるのでしょうか。
季語は、先人たちが守り育ててきた日本人として思いの丈の詰まったことばだと、わたしは考えています。その季語とともに、多くの日本人が泣き、笑いして生きてきたのです。季語によってわたしたちは、先人たちの思いにつながることができるのではないでしょうか。
季語の解説に例句を添えた、美意識の集大成のような歳時記。その歳時記を育て、新たな美を付加しようとする連綿とした営み‥‥。
かたまつて薄き光の菫かな 渡辺 水巴
春になるとわたしは、決まってこの句を思い出します。来年も再来年も、わたしは、この句を思い出すでしょう。「繰り返される《ことで、この句は、既に永遠のいのちを獲得しているのではないでしょうか。野に咲く菫の花のように、この句も毎年わたしのこころに咲くからです。
このように、季語によって一句が季節のなかに措定されると、優れた俳句もまた、野辺の花のような存在になるのではないでしょうか。そして、繰り返し読まれることで、永遠性を獲得していくのだといえましょう。
日本人は、季節の景物にこころをよせ、慈しみ、季語として守り育ててきました。季語は、日本人の心性そのものといっては言い過ぎでしょうか。
俳句は、個人的な、季語との出会いの体験を詠うものだとわたしは考えています。ですから、そこには作者の出会った季語が一つ必ず入ることになるのです。それ故、俳句は作者にとっての自分詩となるのではないでしょうか。