32、表現領域の拡大―二物衝撃

自分の感動を表現したいとき、俳句はその選択肢の一つに過ぎません。音楽でも美術でも、相応しいものを選択すればいいわけです。

しかし、もし仮に、俳句で表現してはいけない領域があるとしたら、それこそが問題なのではないでしょうか。

季語が感動の中心だとすると、予め定められた季語の情趣の範疇でしか、俳句を詠むことはできないのでしょうか。  

実は俳句には、季語の情趣を塗り替える方法がある、あるいは新たな季語を生み出す力があるというのが、わたしの考えです。それが、二物衝撃です。

 

主宰説によれば、二物衝撃は、

●二句一章   二物衝撃型俳句

 二つの文節を真正面から衝突させる句形。

蟾蜊長子家去る由もなし        中村草田男

算術の少年しのび泣けり夏       西東 三鬼

  蟾蜊。長子家去る由もなし。

  算術の少年しのび泣けり。夏。

二物衝撃と呼ばれ、緊張感の出る句形。

と、説明されています。衝撃ということばが示すように、ここでは、季語に対する新たな情趣(衝撃的な情趣)が発見されているのです。

草田男の句でいえば、確かに、蟾蜊と長子家去る由もなしとの取合せは意外ですが、よく考えてみると、家というものの手桎足枷を肯う長子の在り方と、蟾蜊のグロテスクだが土から生えたような土着性とは、どこか相通ずるものがあるといえるでしょう。

また、蛙は卵をたくさん産むことから子孫繁栄の象徴といわれていることも、作者の脳裏にあったかも知れません。

何れにせよ、この意外な組合せに対し読者が戸惑いながらも得心したときが、蟾蜊という季語に新たな情趣が加わった瞬間であったといえましょう。衝撃とは、通常ならありえない組合せの中から、新しい情趣が生まれる衝撃だったのです。

 

情景提示や、補完関係が季語の情趣の範疇での作句であるのに対し、二物衝撃は、季語を超え、季語に新たな情趣を付加していくものといえましょう。

季語の働きでいえば、季語は句の真意を伝えるために働くのに対し、二物衝撃の句では、季語はその句の中で新たな意味を付加され、再生を果たしているともいえます。

そして、新しい季語もまた、作者が発見した新たな情趣が提示されることで、生まれてくるのです。二物衝撃の最大の機能は、季語を新たに生み出すことにあるのではないでしょうか。

万緑の中や吾子の歯生え初むる      中村草田男