四十四、季重なりの回避策
鳥見をしていると、季重なりの場面を詠みたくなることがしばしばあります。しかし、季語は主役ですから、できれば一つだけのほうがいい。
季語は景物そのものに、人々が感じてきた情趣の付加されたことばです。季重なりのいちばんの問題は、この情趣と情趣がぶつかってしまうことだといえましょう。
ですから、情趣のぶつかりさえ回避できれば、季重なりの問題を回避することができます。
具体的な方法を考えてみましょう。
枯蘆の髄を啄む柄長かな 金子つとむ
冬の探鳥会での光景です。二十羽ほどの柄長の群れが、枯蘆の腹をつついて、中の幼虫を食べています。
枯蘆と柄長のどちらの情趣が優勢でしょうか。柄長は夏の季語ですが、〈髄を啄む〉が冬の柄長の生態を描いており、枯蘆の情趣が優勢だということにならないでしょうか。
早苗田に旅の千鳥の啼く夜かな 〃
当地では、五月の連休時が田植のピークですが、この時期の早苗田には、北方への渡り(春の渡り)の途中の鴫、千鳥の群れが入ります。胸黒、大膳、京女鴫、中杓鷸などです。歳時記では鴫は秋季、千鳥は冬季に分類されています。千鳥は、情趣の強い季語だけに、早苗田と千鳥の組合せはどこかちぐはぐな印象を与えかねません。
そこでただの千鳥ではなく、旅の千鳥としてみました。これで、早苗田の情趣がゆるぎないものになれば、句としては問題ないということになりましょう。
蜜吸うて鵯の貌だす桜かな 〃
地味な色合いの鵯ですが、花の蜜を吸う姿などはなかなか絵になるものです。強い桜の情趣をもってきたことに加えて、花の蜜を吸う鵯を描出することで、秋の季感を感じさせないようにしました。
読者は一句のなかに季語があれば、まず季語として鑑賞しようとするでしょう。そこで、もし季節の異なる季語があったり、同じ季節でも情趣がぶつかる季語があると、違和感を覚えるのだと思います。
この違和感を解消するためには、他方の季語の情趣を払拭するための工夫が必要になります。それが髄を啄む(柄長)であり、旅の(千鳥)であり、蜜吸う(鵯)でした。
しかし、よく考えてみれば、これらはみな、眼前の景をただ描出しているに過ぎないのです。眼前の景には、なんら矛盾はないといってもいいでしょう。
ですから、わたしたちは、安心して眼前の景を詠み、季語の情趣がぶつかりそうなときだけ、表現上の工夫をすればいいのではないでしょうか。