良寛月見の松       金子つとむ

     

良寛さんの逸話に

良寛月見の松というのがある

僕も最近になって知ったのだが

こんな話だ

訪ねてきた友のために

良寛さんが酒の買い出しに出掛ける

しかしなかなか戻ってこない

たまりかねてその友人が探しにいくと

松の木の下に腰をおろし

何と月見をしていたというのである

酒代を握りしめ

詩歌を口ずさみながら―――

     

この逸話の解釈は

人それぞれだろう

この友が良寛さんに何といったか

あるいは相手が気づくまで待っていたのか

それは分からない

普通の人なら呆れてしまうところだろう

しかし僕はこう思うのだ

その月が中秋の名月であれ何であれ

月に見惚れて

用事も友のこともすっかり忘れてしまうほど

良寛さんはいつでも

今ここにいられる人に違いないと―――

     

今ここにいることは

実はそれほど簡単なことではない

ましてや用事があって出かけたのだから

いくら月夜の晩であっても

まずは用事を済ますことに専念するだろう

月が出ていても

こちらが見ようとしなければ

見えてはこないものなのだ

しかし良寛さんは違った

その月に忽ち我を忘れてしまったのだ

おそらく月というカミに

出会っていたのではないだろうか

     

詩人の山尾三省さんは

僕にアニミズムを教えてくれた人だ

彼はいう

たとえば海が与えてくれる、善いもの、

広がりがあるもの、美しいもの、

なぐさめてくれるもの、

それらをほかに呼びようがないから

カミというのだと。

そこで僕は思うのだ

カミに出会うための唯一の条件は

たとえ一瞬でも

今ここにいることではないかと―――

     

いつでもどこでも

平気で今ここにいられた良寛さんは

月だけではなく

たくさんのカミに

出会ったことだろう

夢さめて聞くは蛙の遠音かな

鉄鉢に明日の米あり夕涼

松黒く紅葉明るき夕べかな

そして辞世の句は

散る桜残る桜も散る桜

といわれている

俳句もまたカミの詩である

     

                 2023.7.2