高野素十さんについて
まったく迂闊な話ですが、当地に引越して約九年、先頃、この地がかの高野素十氏の生誕の地であることを初めて知りました。氏の初句集「初鴉」を藤代図書館で探しあてたことがきっかけでした。それから同図書館にあった素十さんに関連する本を読み漁りました。ここでは、親しみを込めて素十さんと呼ばせていただきます。
素十さんは、年譜によれば、明治二十六年三月三日に、茨城県北相馬郡山王村(現取手市)大字神住百六十番地に生れています。
以下、ウィキペディアフリー百科事典より。
高野 素十(たかの すじゅう、1893年3月3日 - 1976年10月4日)は、茨城県出身の俳人、医師(医学博士)。高浜虚子に師事。虚子の唱えた「客観写生」を忠実に実践、簡潔で即物的な写生句で頭角を現し、山口誓子、阿波野青畝、水原秋桜子とともに「ホトトギス」の四Sと称された。「芹」主宰。本名は高野与巳(よしみ)。
素十さんの句は、それまで、
ばらばらに飛んで向うへ初鴉 高野 素十
方丈の大庇より春の蝶 〃
など幾つか諳んじておりましたが、弟子である小川背泳子の著書「高野素十とふるさと茨城」(新潟雪書房)を読んで、その人となりを知ることができました。
そのなかで、素十さんのことばとして伝えられている、『俳句以前』ということについて、お話してみたいと思います。
俳句とは、自分の生涯、生活の断面をみせるものであります。そんなことから私は俳句を作る場合で『俳句以前』というものがあり、その『俳句以前』を大切にしなければならないと思います。(中略)
そうすれば、自然の姿・美しさが諸君の前に出て来ます。あるしみじみとした感じが心の中に加わると思います。(大会筆記・背泳子)
また、ある箇所では、
私の句は「草の芽俳句」だとか「一木一草俳句」だとか馬鹿にされよったんですが、私はそう云われながら自分で充分満足しておる。
世の中の或は自然の中の小さい一木とか一草とかそういうものを愛する、大事にする、という気持ちがなくて国を愛することも社会を愛することも出来ないのじゃないかと思うんです。(中略)
一木一草を馬鹿にしている人間、そういうものは向うが私を馬鹿にしていると同じように私は軽蔑している。「一木一草」というものを私は死ぬまで大切にして機会あれば俳句に詠んでいきたい、そう思っている。(長須賀包容記)
わたしなりの解釈をいえば、作者のものの見方・考え方がいわば『俳句以前』であって、そういうものがしっかり据わってくると、自分の目で心底から自然の姿・美しさを捉えられるということではないかと思います。
一木一草を愛するこころが、素十俳句の根本にあるのだと、感じ入った次第でした。『俳句以前』、大切にしたいことばです。