素十さんのことば |
出典 |
〈甘草の芽のとびとびの一とならび〉早春の地上にはやばやと現われた甘草の明るい淡い緑の芽の姿は、地下にある長い宿根の故であろうがこのうな姿であった。一つのいとけなきものの宿命の姿が、〈とびとびの一とならび〉であったのである。それを私はかなしきものと感じ美しきものと感じたのであった。〈甘草の芽のとびとびに一とならび〉ではないのである。 |
高野 素十研究(倉田紘文著、永田書房) |
水仙の花が美しければ水仙の花だけを描くがよい、葉が心にとまれば葉のみを詠えばよい。花も葉も一緒にいい表そうとすると、俳句がごたごたする。必要であれば花の句と葉の句と二句作ればよい |
高野 素十研究(倉田紘文著、永田書房) |
俳句の道はただこれ写生。これただ写生。 |
高野 素十研究(倉田紘文著、永田書房) |
俳句には『俳句以前』というものがあります。一句を成すに到るまでの心の持ち方、心の動きといったものまでを含めて、『俳句以前』というものが大切であると考えております。客観写生と申しても、この『俳句以前』を大切にして、客観写生にお励み下さい。 |
高野 素十研究(倉田紘文著、永田書房) |
「ある言葉を使うのは使うだけの心の要求がある。その点で技巧とその人の主観とがぴったりと一致して居って、我々が之等の人々の句を鑑賞する場合に、心に寸分の隙を与えない。之も長い修練の結果と思う。然るにこれ等の諸君(注、秋桜子、誓子、青畝等)の句の形骸だけを学んで、本当の自分の態度というものを持たない人々がかなりあると思う。私としてはいつも句を作る場合に、先ず自分の心を静かにする正しくするということが一番焦眉の急務であって、その他のことはあまり考えたことがない。変に面白がった句を作ろうなどと思うと飛んでもない句が出来てしまうのである。 |
素十の研究(亀井新一著、新樹社)より |
大景を詠ったから大きな俳句だといふことはできない。小景を詠ったからといって小さな俳句だといふことはできない。強い文字を駆使したからといって力強い句といふことは出来ない。美しいことばを選り好んで使ったといふところで、美しい俳句が出来るものではない。かういふことは最早言い陳された事であるが、心が正常なところにないと句を作る時鑑賞する時も、とにかく忘れ勝ちになる。それが邪道といふものであろうか。大言壮語せず、着実に写生の道を歩む「しほさゐ」は、わがふるさとだけに余計頼もしく感じられる。功を急ぐ勿れ。 |
高野 素十とふるさと茨城(小川背泳子著、新潟雪書房) |
俳句に於て素直といふ言葉は忠実に天地に随ふといふ事であります。 |
素十全集 別館 高野 素十著、永田書房 |
ただ、自然を忠実に見る興味のない人は、俳句を作る或は俳句を楽しむ資格のない人であるといふ断定は出来ると思ひます。 |
素十全集 別館 高野 素十著、永田書房 |
表現は只一つにして一つに限る。 |
ホトトギス S24.10号より |
さぞかし帰雁の佳句があるかと思っていたところ、その句会で先生には帰雁の句は一句もなかった。 「君達はあわてて見たものをすぐ作るからだめなんだ。いいものは見て置くだけでいい。いいものを見た感じを大切にしておけば何時かはそれが句に現れる。別に雁の句でなくともよい。いいものを見て心を養っておけばどこかに現れるものなんだ」 |
高野素十との三十年-体験的・風聞的素十論-(長谷川耕畝著、新潟雪書房) |
雨に濡れ日に乾きたる幟かな 虚子 の書の対幅がかかっていた。(中略) |
高野素十との三十年-体験的・風聞的素十論-(長谷川耕畝著、新潟雪書房) |